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2026年の棕櫚の主日: バチカンが結ぶ、棕櫚の伝統と勇敢な船長への追憶、そして信仰の対比

カルチャー ✍️ Javier Castilla 🕒 2026-03-29 21:46 🔥 閲覧数: 2
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今年の棕櫚の主日、ローマの空気はどこか違う香りを帯びている。香や、新教皇レオ十四世がサン・ピエトロ広場で祝福する棕櫚のせいだけではない。そこには、ひときわ生々しい記憶が息づいているのだ。世界がフランシスコ前教皇を見送ってから、まだほんの数週間。2026年のこの棕櫚の主日は、その後継者にとって最初の大きな試練の場となる。信じてほしい、漂っているのは厳粛さだけではない。そこには、自分の船を捨てて仲間を見捨てることを拒んだある船長の物語もまた刻まれているのだ。

バチカンは今年の棕櫚の主日を、単なる聖週間の幕開けではなく、初期キリスト教の殉教者たち——そしてひとりの勇敢な現代の船乗り——への明確な賛辞としたいと考えた。ミサの中でレオ十四世教皇は、ある船長の姿を偲ぶ。彼は嵐の最中(1965年の棕櫚の主日の竜巻がアメリカ中西部を襲った際の荒れ狂いとさして変わらない状況で)、自ら救命ボートに飛び移るのを拒み、難民を救うために船に残る道を選んだ。そのイメージは強烈だ。オリーブと棕櫚の枝が、信仰とは空っぽの祈りではなく行動で示されることを理解した人物の勇気と、ここに絡み合っている。

その一方で、私たち凡人の暮らすこの地上では、どうしても生きている非情なまでの対比を考えずにはいられない。最近読んでいるのは『持つ者と持たざる者-ヨットのある人生 超富裕層年代記』という本だ。これは、テクデッキを汚す波など関係ないとばかりに、自分の船の甲板から世界を眺める超富豪たちの生活を、アイロニーと生々しさをもって描き出している。その対比は、まるで聖書のようだ。一方にはキリストを王として歓迎した棕櫚(それが数日後には彼の断罪を目の当たりにするとは露知らず)、もう一方には、濡れた地面に足を踏み入れて誰かを助けたことなど一度もないエリートたちのための、浮かぶ楽園として機能するヨット。シャンパンとプライベート桟橋の世界に、棕櫚の主日の精神はどこに残されているのだろうか。

だからこそ、最近話題になっているささやかな物語に心を惹かれるのかもしれない。リー・ホームズの話だ。彼は有名な名前ではないし、英雄的な船長でもなければ、ヨットの大物でもない。リー・ホームズはインディアナ州の農夫で、あの壊滅的な1965年の棕櫚の主日の竜巻の際に、自分の農場を失いながらも隣人たちを救った。彼が持っていたのは祝福された棕櫚ではなく、土とがれきにまみれた自分の両手だけだった。そして何十年も経った今、彼の孫がその話をつづった手紙をバチカンに送り、この聖週間に、思いやりを唯一の財産としてきた普通の人々を忘れないでほしいと願い出た。教皇レオ十四世は、バチカンの関係者によれば、個人的なメッセージでこれに応えたという。友よ、これこそが真の棕櫚の主日というものだ。

だから、花で飾られた祭壇や香の香りが漂う行列を目にしながら、手にしたその棕櫚の枝の意味を、どうか思い出してほしい。

  • それは幸運のお守りではなく、ひとつの約束事である。
  • それは容易な勝利の象徴ではなく、ヨットではなくロバに乗った王の象徴である。
  • そしてそれは空虚な伝統ではなく、あの船長やリー・ホームズのように、自らを犠牲にして他人のために尽くした人々の記憶である。

なぜなら、結局のところ聖週間とは、棕櫚や大規模な行列のことではない。どちらの側に立つかを選ぶことなのだ。自分のヨットにしがみつく権力の側か、それとも十字架を背負う弱さの側か。今年の棕櫚の主日、私の信仰がどこにあるかははっきりしている。あなたの手には、何が握られているだろうか。